東日本大震災 津波と復興

2011年3月11日、東日本大震災発生。仙台空港給油施設を津波が襲った。今までに感じたことのない揺れに、社内はパニック状態。余震が続く中、消防団が津波がくるので避難するように呼びかけ、社員にターミナルビルへ避難するよう指示。退去前に両タンクの受払元バルブを閉鎖し、入口ゲートを閉鎖した後、全社員仙台空港ターミナルビルへ避難した。

避難完了後の約1時間後の15時56分に、高さ10mもある津波が家屋や車などすべてのものを飲み込みながら押し寄せてきた。まるで巨大なブルドーザーのようで、その状況をただ見守るしかなかった。仙台空港の周辺は海と化し、外部との連絡は途絶え、水道、電気のライフラインも寸断された。仙台空港は孤立した。

空港周辺の水が引くまで3日間、仙台空港ターミナルビル内で乗客や避難住民の世話を航空会社職員とともに行った。津波から3日後、乗客、避難住民を全員送り出した後、解散。各自自宅に戻ったが、自宅が被害にあった者、家族を亡くした者と社員の中にもいろいろとあった。

甚大な被害を受けた仙台空港。仙台空港給油施設も受払場の油配管やそれに付帯する設備、建築物、構築物はすべてが破壊されていた。給油車両は海水につかり全滅状態だった。奇跡的に貯蔵タンクはローリー受払場と油ポンプ室に守られ大きな損傷もなく貯蔵燃料の流出はなかった。2基ある貯蔵タンクには約80%の燃料が入っていたため、津波に流されることがなかったのだ。貯蔵燃料についても異常は認められなかった。

地震発生から6日後の3月17日には全社員に連絡がついた。名取駅前のマンションの一室を借り、仮事務所を設置し、瓦礫の撤去作業が始まった。米軍のトモダチ作戦により大きなものの排除。米軍の大型重機が絶え間なく行き交い、砂埃が舞い上がり、まるで戦場のようだった。

ラック場やポンプ室内はまだ瓦礫が詰まったままだった。行政に相談しても取り合ってもらえず、自前で建設会社に瓦礫排除を依頼。社員は手作業でできるものの撤去と重要書類の探索を行ったが、在庫関係の書類は発見できなかった。 瓦礫の撤去には約1週間の時間を要した。施設の全貌が現れ、払出配管がちぎれているのを見た時には、避難前にバルブを閉めなかったら燃料の流出は免れなかっただろうと、背筋が凍る思いがした。

配管の復旧には3カ月、タンク内部の補修を含め設備の復旧には8カ月

7月25日には国内便が再開。タンク燃料も払い出すことが可能となったがエアラインから配管を使用する承認が得られていないため、タンク元バルブ付近に仮払出口を設置し給油車に直に払出する方法を取った。しかし、払出フィルターを通過していないため再度別の給油車に移し替え、品管を実施し、異常がないことを確認し、給油に使用した。臨時便数が増えたものの給油数量は伸びず、タンク燃料を減らすことはなかなかできなかった。また、外航機の飛来はなく保税燃料はタンクに残りタンクを開けることができなかった。

どうにかタンク燃料を払い出し、タンクを開放し内部の点検をしたところ内部に大きな損傷はなかったが、タンク開放に合わせて底板の板厚測定も実施したところ、一部分に消防法に抵触する薄い部分が発見され、当て板溶接による補修工事が必要となった。

溶接にはさほど時間は要しなかったが、塗装を4回行うためタンク1基当たり約1カ月間の時間を要した。各工事終了後その都度、各利用者に報告し了解を得た。

配管の復旧には3カ月、タンク内部の補修を含め設備の復旧には8カ月を要した。施設外周を巡らせているセキュリティフェンスについては国管轄とパシフィック管轄の部分があり、国管轄フェンスの3月末の設置完了に合わせ、パシフィック管轄部分の設置を完了させ、給油施設の完全復旧となった。

未曾有の被害をもたらした震災から学んだことを今後に活かしていきたい

今回の災害では最悪の状況の中に奇跡的な幸運があった。

一つ目は、震災時に旅客機が一機も駐機していなかったこと。二つ目は空港従業員に犠牲者が出なかったこと。三つ目はパシフィックのタンクからの燃料漏洩がなかったこと。いずれかひとつでもあった場合には、仙台空港再開はできなかったと言っても過言ではない。

大事なことは従業員を全員避難させること。タンクの元バルブを閉めること。この二つができれば復旧はそのあとについてくる。